ALL IN ONE 10回終了

ここはどこ?野越え山越えいつまでも線路は続くよムダな努力の
カフカ「変身」

自分の身に何が起こったのか、グレーゴル自身とまどっている時点で、妹のグレーテは隣室の扉の向こうで、早くもすすり泣いていた。何故だろう?
グレーゴルの身に何が起こったか、妹は兄本人よりも早く知ったのではないか。起こり得ることが、不運にも身内に起こったことを。だから兄の姿を見る前に泣きはじめた。
グレーゴルの勤務する会社の支配人はグレーゴルを見てあわてふためき、ほうほうの体で逃げ去る。これは異常な事態そのものへの反応と見てよい。
これに対し、女中二人はグレーゴルの姿を見ないうちから、怯えて暇乞いしている。グレーテと同じく、すでに何が起こっているか知っていたからだ。
その後に雇った通いの家政婦はグレーゴルの姿を見ても驚かなかった。あたかも既視の事柄であるかのようである。しかも、ありきたりの。
三人の下宿人もさして驚いていない。憤然とし、こんな下宿先にいては名誉にかかわるとでも言うかのようだ。異常というより先に、不名誉な事態。
母親はグレーゴルを見て失神してしまうが、父親の態度は驚きや恐怖ではなく、むしろグレーゴルに起こったことに対して不機嫌になっている。やはり息子の変身は父親にとっても異常より先に、不名誉な事態なのだ。
つまりこの変身には二つの顔がある。
1. 超自然現象(有り得ないこと)
2. 自分や自分の身内には起こって欲しくないが、誰にでも起こり得ること
グレーゴルが一家のお荷物でしかないことが明らかになっていくのと対照的に、父親は銀行の門番という仕事を見つけ、家でも金モールの制服を着用して元気づく。無能無益となったグレーゴルに対し、日増しに活動的に変化していく父親。かつてはあんなにヨボヨボしていたのに、今や独裁者然として一家の不名誉な事態、即ち息子の変身を糾弾しつつある。
この二人の負の相関関係は何を意味しているのだろう。
グレーテもまた兄に対して家族の情というより、庇護者としての態度を見せ始める。しかもそれが自分の特権であるかのように、他の誰かが手を出すとヒステリックに怒りだすのだ。
しかしやがてグレーテは兄の世話に嫌気がさしてくる。そして虫への嫌悪を隠そうともしない。
「あれはもう兄さんでない。もっと早くに諦めていればよかったのよ」
グレーゴルが家族を支えていたとき、一家は沈滞していた。しかし変身という事態によって、一家は紛糾すると同時に、一方で活動的になる。
さらにはグレーゴルの死とともに一家は奇怪で不名誉な事態から解放され、未来への展望さえ開かれ始める。一家を支えてきたグレーゴルのそれまでの努力は報われないばかりか、認められさえしない。死骸は家政婦によってゴミとして片付けられる。
「虫」「毒虫」と日本語に翻訳されるドイツ語にはユダヤ人の意味もあるらしい。このことは作者もまたユダヤ人であることを思えば、作品解釈上看過できないと思う。
目を覚ましたら虫になっていた。グレーゴルは善良で家族を愛し、とりわけ妹の行く末に心を砕き、真面目に働き、芸術を愛する人間だ。突然虫に変身しなければならない理由などなさそうだ。だからこの変身は不条理である。
それとも家族思いの善良な人間であることは、この不条理の理由たりうるとでもいうのだろうか。
虫への変身は奇怪で不可解であると同時に、そこに何か不名誉なものがまとわりついているらしい。
カフカにとっては、エジプト人などではなく、自分が他ならぬユダヤ人であることが、虫に変身するのと同じように不条理だったのでないだろうか。なぜ自分はユダヤ人なのかと。
「虫」 =ユダヤ人という図式は、作品解釈の方向を直接的に示唆するように思える。
人生を変えた時代小説傑作選

菊池寛「入れ札」1921
誰が親分(国定忠次)と逃避行を共にするか、入れ札(投票)が行われる。最古参だが人望の薄い九郎助は、何とか面目だけは保ちたいと自票を投じるが…
皮肉で苦い。卑小で滑稽な九郎助は我々自身の姿であるか。
五味康祐「桜を斬る」1954
二人の剣豪による荒唐無稽比べ。やんや、やんや。
松本清張「佐渡流人行」1957
無理スジの心理。この男、サイコパスか。結末はご都合主義にして安ドラ。
山田風太郎「笊ノ目万兵衛門外へ」1972
あざとい場面の数々と、意味ありげなだけの鬼面人的結末。
藤沢周平「麦屋町昼下がり」1987
結構はもとより、情景描写、人物造形、どれも優れていて、作者が小説の要諦を心得ているのが分かる
池宮彰一郎「仕舞始」1993
赤穂四十七士が四十六士になった顛末仔細。テーマを前面に出しすぎている嫌いあり。一歩間違えると描写が説明に堕してしまうが、ここではギリギリセーフとしよう。
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人生を変えた・・・う~ん、この程度で変わったら、人生目まぐるし過ぎて、頭パッパラパーになってしまうのでは? あえて言えば「入れ札」と「仕舞始」が、人生を考える契機にはなるかも。
J. ウォーレス & D.キース「ハンターキラー潜航せよ」
潜水艦バトルに加え、金融システム乗っ取り、ロシアンマフィア、SEALの大統領救出作戦など、読者をたっぷり楽しませるエンターテインメント。
サブマリン・バトルにおいて、艦長の経験とクレバーさが雌雄を決する余地はなくなりつつあるようだ。探索、探知、音紋解析、攻撃、すべてコンピュータが実行する。現代の潜水艦は攻撃プロセスにおいても破壊力においても、かつてのそれとは比較にならない。
近い将来AIが艦と戦闘を指揮するのかもしれない。AI同士の戦いだ。そうなれば人間が乗り組む必要はなくなるか?
残念ながらそうはならないだろう。戦争はゲームではないし、人間は機械で置き換えられない。人間の命と尊厳を賭けなければ人間は負けを認めない。そして負けて終わるわけでもない。
著者の一人、ウォーレスは元海軍大佐。潜水艦の艦長だった人で、そのためだろう、艦や武器の操作、潜水艦乗りの生態など、描写はリアル。
芹生公男編「現代語古語類語辞典」
Amazonより、芹生公男編「現代語古語類語辞典」届く。
「古語類語辞典」1995年、「現代語から古語を引く辞典」2007年、を経て完成した由。2万1千の見出しで32万4千の類語が引ける。
見出しは五十音順で、類語が時代別(現代、近代、近世、中世、中古、上代)に並んでいる。
類語辞典はジャンルや概念で分類されているものがある。古くは「古事類苑」など。これらは「読む」には良いのだが、「引く」時にアタリをつけるのが難しい。そのため、それぞれ検索に工夫を凝らしているが、それでも「引く」となると煩わしい。引くには何といっても五十音順が便利だ。本書は利用者の利便性を優先し、見出しを五十音配列にしてある。
類語が時代別に並べられているのも特長の一つ。一口に古語といっても、大昔から現代まで使われているものも少なくないが、時代ごとに異なるものも多い。いつ頃まで使われてその後死語となったかはわからないが、初出がいつ頃なのかはわかる。
この辞書は編者の個人編集になるものである。今でこそ語彙の収集、分類、編集はコンピュータの力を借りて、個人による辞書編纂も決して不可能とは言えなくなったが、かつての辞書編纂の労苦は想像を絶するものがある。
借金し、家屋敷、田地田畑売り払い、それで出版できれば良し。矢尽き刀折れ、志し半ばにして斃れ、原稿は散逸、反古となった例は枚挙に遑がないという。
それを考えると「大漢和辞典」の諸橋轍次を筆頭に、「広文典」の物集高見、「字統」「字通」「字源」の白川静など、あれだけのものを個人で編纂したその刻苦勉励には驚嘆の念を禁じ得ない。
編者は1995年の「古語類語辞典」出版より30年かけて本辞典を完成させた。最初の「古語類語辞典」は現代語約9500を見出しとし、古語約4万を収録した。本辞典は2万1千の見出しで32万4千の類語である。
最初から完全を目指さず、改訂の最終形態として本辞典を結果させたのは賢明といえる。たとえ道半ばにして斃れても、その労苦は無駄にならない。
諏訪根自子を聴く
諏訪根自子(スワネジコ)全盛期の1957年(37才)の公開録音。モノラル。
曲はバッハの無伴奏パルティータ第2番と、2台のヴァイオリンのための協奏曲。
指揮:斎藤秀夫
オーケストラ:桐朋学園オーケストラ
第二ヴァイオリン:巖本真理
戦前、天才少女としてヨーロッパに留学し、その技量と音楽性の高さが、高名な演奏家たちから絶賛された。時のドイツ第三帝国に招かれ、宣伝省のゲッペルスからストラディヴァリウス「なるもの」を贈られている。
古い録音なので、音は悪い。ホワイトノイズも聞こえる。
演奏は、、、分からない。幸か不幸か(不幸にきまっている)演奏の良し悪しを聴き分ける耳を持っていない。
が、幸いなことに収録曲がバッハだ。バッハは演奏家の腕に依らない(んなこたないか)。少なくとも録音の良し悪しに依らない。録音の悪さも、再生装置の安さも、ものともしない。
久しぶりにバッハの管弦楽曲を聴いたが、思いがけず感動してしまった。録音の古さなど、まったく気にならなかった。
